納豆のトクベツ

今週のお題「納豆」

父は関西、母は東北。

世代的に考えると(二人とも昭和10年代生まれ)、よく巡り合ったねって二人。東北の割と大きな街から関西のど田舎に身ひとつで嫁に行った母の思い切りの良さも、なかなかだと思う。父は本家と呼ばれるところの跡取り、舅姑だけでない、親戚・派閥なんでもござれなド田舎で。そこは時代的に情報不足は否めないとはいえ、若さゆえの無謀。少なくとも平成の時代なら、家族が総出で止めそうだけれど。

そうして、当然。文化圏の違い、習慣の違いは母を苦しめた、と思う。父はどんな役割だったかは知らないけれども。

母は納豆が好きだった。家族全員が座る食卓、母の席の前にはヤカンやら醤油やらが置かれていて、そもそも座って食べてるなんて、ほとんどなかった。家族の食事が終わったら、お皿を下げるのは娘の仕事。その隙に母は炊飯器の前で、納豆かけご飯を食べていた。とはいえ、当時の関西のド田舎で、納豆は購入すらも難しい。関西人は納豆を好まない(当時)。少なくとも村に唯一ある商店には、なかった。車で1時間弱のところのスーパーに買い出しに行き、そこでまとめて買っていた、と思う。そして、関西人は納豆を好まない(当時)。つまり、関西人である舅・姑・夫は、納豆を食べることを好まなかった。ニオイが嫌だと言っていたので、まれに母が一緒に座って食べる食卓には納豆はなかった。いつも納豆は家にあったけれども、野菜室の底に隠れるようにしまわれていた。

そんなこんなで、納豆はちょっとトクベツ。私は納豆が好きだったけれども、なんとなく家の中の事情が分かってくると。限りある納豆は、母もの、だった。納豆を混ぜるヒマなどない、パックからポンとご飯に乗せて、ささっと食事を済ませる母のもの、だった。

ひとり暮らしをはじめて、冷蔵庫に納豆を常備している。おかずが何にもないときの強い味方で、ご飯すらないときでも納豆があるから大丈夫、と自分を鼓舞できる。オクラやらじゃこやらいれてくるくるくるくるしっかり混ぜた納豆をかけて、ねばとろ丼、なんてしゃれこむのは、余裕があるとき、もしくは余裕を持ちたいとき。箸置きなんかも用意して、手を合わせて「いただきます」。キャベツやら玉ねぎやらの下にあった納豆パックと、炊飯器の前でささっと食事を済ませる、まだ若い母と。ひとりでゆっくりご飯を食べている私と。箸をおいたら、手を合わせて。「ごちそうさまでした」

そんなわけで、いまだに納豆は私のトクベツ。