戦争の教育

今になって思うのは、義務教育といわれる小中学校で学んだことで、必要のない知識は何もなかったということ。そしてあの理不尽でしかない学校生活も、経験としてたぶん必要なものだったということ。どちらも昭和のお話ですけれども。

いや、使ってないものはたくさんあるんだけど。二次関数とかなんとか、正直何を学んだか、ひとつひとつは忘却の彼方。ただ、雑談とか常識とか言われる部分で。「あー、あったねそれ。なんかやったわ。」ということにはなる。もうちょい堅苦しいなかで言葉にはしないまでも何とか話題についていけるのは、あの頃のおかげな気がする。まったく聞いたこともないことについて、反応するのも難しい。みんなの知らない常識は非常識なので気にしないけど、その場の同世代くらいの方々が皆さんうなずいているのを見ると、ダラダラと背中に変な汗をかくことになる。ダラダラしながら、ああそれね、、ってうなずいて。こっちには振るなよ、と念じながら半歩後退る経験というのは、かなりストレスフル。世代が違うとその辺はなんとなくもう少しおおらかな気持ちで居られるのだけれど。

義務教育は、学校生活とかも含めてだけれども、教養とか常識の中核、の大きな部分を占めているんだろう、、なんてことを、オトナを重ねて、思い知らされるわけです。教育って、人の、もっと言っちゃうと国の、さらに言っちゃうと世界の、根幹ともいえるんでないかい、と。

戦争のニュースを見る。幸いにもニュースで見る、戦争。

あの中での義務教育は学校生活は、生き残ること。

つまり、人は簡単に死ぬ。大切にしたいものは簡単に壊される。そして、人を殺すのも、大切なものを壊すのも、人である。

戦争のただなかに放り込まれた子どもが。ニュースの中で、自分の足で、誰かに抱えられて、誰かを抱えて、逃げ惑う、倒れこむ、子どもが。死んでしまったとしても、そして生き残ってしまったとしても。人という生物を、その生涯で信じることができるのだろうか。同族である人を信じることができずに、その人生に意味を見出すことが、できるのだろうか。

戦争がなくならないのは、たぶん、教育の所為。強烈な暴力の教育。人を殺すのは、自分と同じ、人であり。自分もまた、人である。殺されて壊された、殺して壊した。そんな人であると、学ぶ。

紛争でも、戦争でも。暴力は選ばない、平等である。男性でも女性でも、大人でも子どもでも、そこに生活を持つ者たちのすべてを襲い、奪う。ニュースで見ている私がいつか、そこに放り込まれる、そのときに。わたしの教養の中核は、塗りつぶされて創りかえられるのか、それとも。