神宮の杜を、祈る

むかしむかし。約束の時間に追いかけられながらハイドパークを横切ったときに。

こんなにばかばかしい広さの公園を街のど真ん中に置いておける人たちの、豊かさと大きさを思い知った。割と国土が狭い島国にあって、こんなサイズのー遊びーをいくつか中心地に持てるということに、「太陽が沈まない国」であった帝国の矜持を、告げられた。「日出づる国」では、役不足なのかな、と。どうしようもないけれど、ちょこっと悔しかった。

それから幾ばくか時が過ぎて。代々木公園から明治神宮の森を抜けたときに、なんてこった…と息が切れる羽目になった。

やるじゃん、日本。

東京に、こんな場所を持てるなんて。。

いや、帝国をもしのぐかも、と肌が粟立った。それが、百年ほど前に人の手によってつくられた、神宮の”杜”。

杜としては、まだ稚いのであろうけれども、だからこそか、生まれたての木霊を探してみたくなるような。樹木から、そして、その土壌からも、生命の力が、滴る。ここでは、木漏れ日にすら生まれたての神が宿っているかのように、すやすやと輝く。

八百万の神の国に、いる。

信仰を持たないといわれがちな日本人の『拠りどころ』となりうる場所を、ここに持てるという、幸い。

所詮、人が作ったもの、、、なんて、言えない。

人が作ったとしても、そこに何かが生まれて、芸術とかいわれるものに昇華するものもあって。信仰の中心に人の手に依って作られた神もあることも、また事実だから。

ーー人の手を介さずとも永遠に存続する森

つくりはじめた人の想いが、ほんの少しも損なわれることがないことを、祈る。

私の生まれた国が、豊かに大きくあるままであることを、祈る。