いなりが恋しいと、賢治がうまれる(は言い過ぎ)

いい加減、に作る毎日の料理。大さじとか小さじとか、cupとかgとか。基本的には、使わない。全部台所の手に届く場所にはあるけれど、かれらが活躍するのは、味の想像がつかない料理を作るときと、きちんとお菓子をつくるときだけ。

味見もしないで作った逸?品は、わりと毎日のブースター。おいしければラッキー、まずくてもネタになる、ふつうならば安定感のある自分の腕にほっとできる。

実のところ、ふつうが一番まれなので。料理人の才能という点では、かなりかなりな評価となるだろうけれども。ある意味、ほとんど毎回が新作料理で、それはそれで楽しめる。自分の手料理にびっくりを込めることができるのも、料理人の才能、には違いない。

しかしながら。「もう一度」「あれ」が食べたい、というリクエストに応えることは、できない。想い出というスパイスのせいでもある、にしても。才能、も邪魔をするし、何より。また食べたくて作るものは、食べたいあれ、にはならない。はっきりいえば、味が落ちる。だから、乞うのだ、恋しいのだ。

そんな私が追いかける、自分の過去のいちばん、はいなりずし。

ふっくらあまくてしょっぱくて。ぺろっとなくなるいなりずし。

”あの時のいなりずし”を乞い(恋)、こがれて、追いすがる。

この恋を自覚してから。

いなりずしを作るとき、記録をとる。そして、捨てる。を繰り返す。「あれじゃあ、ない。」、から繰り返す。

そうして、とうとう、ひとさまのレシピに頼り始めたのだけれど。それはそれで、十分においしい、とは思うのだけれども。

いなりずし。

あの時と同じでなくてもいいから、あれ以上においしいものでもいいから。

人生のベストいなりずしを、いつでも作れる。

サウイウモノニ ワタシハナリタイ

こい口の見た目 味もこいぃぃ’(当人比)ーきょうの〇理レシピより