鶏モモ1キロまつり

きっかけは30%オフのシール。国産鶏もも1キロ980円、の3割引き。。買うでしょ、連れて帰るでしょ、なかなかのお買い得品。

皮をきれいに取って、脂も取って、圧力なべに並べる。生姜とニンニクがちょうどある、なら当然に放りこむ。砂糖・醤油・酒・みりん・和風だし。水もチョイっと足したら火にかける。15分も加圧しとけば、ほろっほろに仕上がるはず。

んで、皮。一口サイズに切り分けて(切れない包丁の呪いが最も発揮される、、ほんとにめんどう、これ。包丁砥げよ、ってな話ではあるけどもさ)、フライパンにいれて弱火。これはほとんど30分かかる、が。ほとんどほっとけばよいので、私向け。ちょいちょいとかねて取り置き大根の皮と葉っぱニンジンの皮を千切りにして、フライパンをゆすり。ざっざっと洗い物を片付けて、フライパンをゆすり。圧力なべを火からおろしスープの鍋をセットして、フライパンをゆすり。。コンロがひとつふさがれちゃうけれども、それさえ我慢できれば。ただ傍らにいて、たまに励ます(ゆする)だけで。かりっかりの鶏皮せんべいと鶏油ができる。これを発見したときは、天才かもしれん、、自分、、って、ワインのボトル、思わず空けたし。

鶏皮せんべいを皿にあげ、鶏油を容器に移したら。もういちど鶏皮せんべいをフライパンにいれてかるく塩コショウ。2分も炒めたら、鶏皮せんべいは、完成。ほんのすこしフライパンに残った鶏油で、野菜をいためてスープの鍋へ。これでスープに鶏のコクが加わる(といいな)。

そのころには圧力なべのピンもおりて。さて、出来や如何に。。。ほろっほろに鶏ももが炊けている、、が。ちとばかり味がうすい。ので。鶏モモをお皿に移し、煮込み汁を煮詰める。ちょいちょい調味料を足してみる。みそとかとうがらしとか。甘みが足りんので、レモン飴も砕いて入れる。焦げ付かないようにぐるっぐるかき混ぜながら煮詰めて、混ぜてる菜箸で味をみる(食べんのは自分だけ、小皿とかスプーンで味見するようなセレブ?力は持ち合わせていない)。このへん!!うまい!!となったら、火を止めて。鶏モモを鍋に戻す。しばらくつけとこう、きっと鶏モモもこの味を気にいって吸い込むに違いない。。

冷蔵庫の奥に秘蔵のマントウ。レタスもまだ少し残ってる。すなわち、今日のブランチは。蒸かしたマントウにレタスと鶏モモをはさむ。さらに、やさいスープと鶏皮せんべい。うーん、ビールも足してもいいかもなぁ。

・・・突発的なお休みだと、わりとまともに生きてる気がする。

 

 

雨の日のオトナ

朝には止んで、昼頃少し降る。ならば、傘はいらんな。

外ではまごうことなく雨が降っているけれども、道行く人は傘をさしているけれども、駅までの距離ならそれほど濡れない。電車が目的地に着くころには、きっと止んでる。つまり傘はいらない。。玄関先で傘に手を伸ばしかけて、やめた。

もともと傘をさして歩くのも、傘を持って歩くのも、あんまり好きではない。手にモノをもって運ぶ、というのが苦手なのだ。荷物を持つなら肩にかけるか背中に背負うかの二択。そこに傘はいらない。もちろん、きっちりと雨降りの日、には四の五の言わずに傘さしますけれども。オトナだもの。

そう、オトナなのに。びしょぬれで過ごすことになりましたよ、今日一日。。

まあ、ね。天気予報を確認したのが、昨日の夜9時過ぎ。朝はそんなヒマなく小走りで(比喩ではない)支度して。動きが止まったのは、玄関先で傘に手を伸ばしかけたとき、だけ。なので、全面的にわたしが悪い、ともいえよう。。天気予報のせいにしたいところではあるけれども、彼らは健気にこまめにアップデートしているわけで。

一日雨の中で(とはいっても降ったりやんだりで、がっつり降ってたわけではない)、傘がないとどうなるか。髪をかまうヒマが惜しくて帽子をかぶっていったので、これがラッキーアイテム。頭と顔が濡れないと、それほどに雨粒というのはうっとうしいものではない。手はポケットに入れておけば濡れないし、なんかするときは手袋をすればよい(そしてここでもラッキーなことに、コートに入れっぱなしの手袋があったりなんかした)。手でも顔でも、肌が濡れると。傘忘れました、雨に打たれてます、、ってな気もちになりそうな気がする。

服は、雨がしみ込むと、ぽたぽたしてますけどの惨事も予想されるところではあるけれども。今日はナイロンのコートだったので、屋内に入るときは脱いで軽くふっておけは、わりと大丈夫だった(と思う)。ただし、わりとしみじみと効いたのは。しみ込んでこなくても、濡れたコートは、身体を冷やす。肩からしんしんと冷えが降りてくる。間になんかストールとかタオルとか巻いときたかったけれども、そんなモノの持ち合わせはなく。電車の暖房を堪能しました、ありがとう電車。足元は、傘さしてても濡れるしってなことで、通常運転。

教訓とするならば。屋外で過ごすと決まっている日。出がけに雨が降ってたら、傘をさしていったほうがいいですよ、という話。ついでに、天気予報は直近のを確認すれば、なおよいでしょう。。てなことでもある。

わかっちゃいるけど、やめらんない、、ではなくって。わかっちゃいるけど、変えらんない。すでにオトナを始めて数十年。なかなかなかと変えらんないのよ、何もかも。

傘なしびしょぬれ。雨に唄えば、、てなほどの余裕はないけど、スキップくらいはできるかも。もうちょっとあったかい季節になれば、きっと楽しい、こともある、ような気がする。。ちょっと早めに予行演習しただけ、なんていうのは、負け惜しみとしても。ほんとに夏になったら、きっと、やる。傘なしびしょぬれ。

ただ、ひとつ気を付けたいのは。休みの日、にすること。ほんとに。はたらくオトナとしては、傘なしびしょぬれは、もう、したくない。。。

67歩

金曜日の夜から、日曜の夜まで。まったくの自由時間ってのが、クセモノで。何をしてもいいとなると、プランをたくさん積み上げる。でもって、ほとんど何にもこなせないを繰り返す。自分で組んだプランでほんとに楽しみにしてたはずが、家から出る、というハードルをたいていは超えられない。じゃあ、家ン中で、、ってのも、寝床から出る、というハードルが、高るい。んでは、寝床ン中で、、ってのも、やるっ、ってスタート切るのが、なんとやら。。。

言い訳だったら、どんだけでも浮かんでくる、日曜日の21時も過ぎるころ。この時間になると、なんてこったい、って我に返るのだ。自由時間はすり抜けて、もう何も残っていない。グダグダしてないで、起きなさい、、って叱ってくれる人なんてもういない。おひとりさまの弊害、ってやつなのかもしれんけど。いや、おひとりさまへの風評被害。。いい大人なら、きっときちんと自由時間も掴まえておけるんだろう、、としばしの反省。

反省だけならサルでもできる。って誰かに言われたことがあったな、遠い昔。。そんなセリフを投げてくれる人もいたんだけれども、なげすててきちゃったからなああ、とさらにふかぁく反省を重ねるのは湯船の中。二日ぶりのお風呂は、わたしにも優しい。自業自得を重ねていくと、だんだんとやさしいイキモノは周りからきえていき、のこるのはモノだけになっていくもんだ。いや寿命ってので取られることもあるから、自業自得だけではないけれども。

というような週末。二日合わせての歩数が二桁。次はせめて三桁に乗せたい、、ってのもまた、たぶん流れ去るプラン。

むかしのはなし(1:おふろとか)

わたしの家は檜風呂だった。っていうと、ぜいたくな感じもするけれども、DIYの檜風呂。昭和の終わりごろの山は檜と杉であふれていて。ぜいたくというなら、ホーローの風呂のほうがよっぽど、だった。

檜の風呂を薪で沸かす。薪で沸かす、のは子どもの仕事で。5時にお寺の鐘がなったら、家に帰ってやんなきゃいけない。おんなじ集落で、檜風呂はいても、薪で風呂をたくという子はいなかったから、うちのこだわりだったのかも。薪の風呂のほうがよくあったまる、、とオトナによく言われた。とはいえ、めんどうな作業の上に、結構に難しい。ばあちゃんに風呂の焚きつけを教わったけど、なかなかにうまく火がつかなくて半べそかきながら、薪を組んだことは覚えている。あと、湯加減。風呂が沸いたら熾火に落とすのだけれども、このタイミングがわからない。何度も確認しているうちに、ぬるいのか熱いのかわからなくなるのだ。はじめは風呂の蓋でそれから腕をいれて湯をかきまわし(当然底のほうが熱いので)て真っ赤になった腕。熱すぎれば水でうめればいいのだけれども、水が多すぎるともったいないと怒られ。ぬるい時にはこれじゃあ風邪ひくと怒られるうえにもう一回薪をいれなきゃいけないので、かなりの手間なのだ。

風呂といえば。秋になるとシイタケの原木(2~3本)置かれていた。広い風呂ではないので、シイタケに遠慮して湯を使った。うちのシイタケは山の中に組んであったので、寒い時期に気軽に食べられるように何本か置いていたんだと思うけれども。寒くなると当たり前にそこにあって、あったかくなるといなくなっていた。小学生のどっかのタイミングでホーローの湯船に代わったけれども、やっぱり薪で風呂を焚いていたし、寒くなってくるとシイタケの原木と一緒に風呂に入っていた。ホーローに代わった時に風呂場が広くなり。当然にシイタケの数も増え、やっぱりなんとなく湯を使うときはシイタケにかけてしまわないように気を使っていた。平成になってしばらくしてから、家の改築に伴い、いわゆる普通の(薪で焚かない)風呂になって、シイタケは風呂場から姿を消した。当時、ひとり暮らしの風呂にシイタケを置こうなんて考えもしなかったけれども。正月に帰省して、シイタケがいないなあ、、とさみしくなったくらいには、シイタケと一緒にお風呂になじんでいた。

ホームセンターでシイタケの原木を売っているのに行き会ったとき、風呂場に置こうかなあ、、とつぶやいて同行者をドン引きさせたことがある。そのときにはじめて、普通の家では風呂場にシイタケを置かないことを知ったのだ。家の風呂は薪で焚いていたという話を他の人から聞いたことがないので、ガスとかの風呂とシイタケの相性の問題かもしれない、、とも思っている。どういう相性かはわからんけれども。

そういえば。薪の風呂はたしかに芯まであったまる、というか、温かさが持続する。ほこほこと身体の中があったかい。あのあったかさは、ガスとかのお湯とはまた違って、温泉に近いような気もするけれども、、ああ、銭湯。。あのあったかさ。

銭湯でシイタケ、見たことないけど。。

 

 

sakupontan.hatenablog.com

 

むかしのはなし(0:いいわけ)

うまれてきて、ウン十年。昭和のおわりに子どもだったのだけれども、同世代と話していても時代がずれてる、、といわれることがある。近畿の山の中で育ったから、都会のヒトとはちがうのさ。。てことだとは思うのだけれども、おんなじ小学校の友人とですら話が合わないことがあったりするのだ、なんでやん。。

おそらく、変わり目。桜前線が南から北へふわとあがっていくように、天気が西からさぁっと変わっていくように。昭和の日常は都市を起点にぼわんとふくらみ、同心円状に塗り替えられていった。あとで思い返せば、あれが村でさいごの○○だった、というモノに参加していた子どものわたし。おんなじ学区でも山の中の集落だったから、変わり目が来るのがちょい遅かったのかもしれない。

同世代というよりも30年くらい上の世代と話が合う、ってな子どもの時代。今となっては、その貴重さが身に染みる。むかしはよかった、とも思わないし、やりたいったって、できないし。そも、かなりめんどうなので、イベント的なノリでもないとやんないとも思うけれども。でも、イベントにしちゃってもいいんじゃ、、ってくらいには、レア体験、のような気もする。最近の物忘れの激しさ(めがねどこ~をめがねを頭にかけてやる日がリアルに来るとは思っていなかった、、)は、おもいでぽろぽろ、どころではなく、ぼろぼろ、となりそうな勢いで。

とりあえず、かいとこ。

 

 

 

 

さよなら人類

今週のお題「卒業したいもの」

 

どっからか「さよなら人類」のフレーズが飛び込んできて、ぐるぐると木星についちゃってピテカントロプス近づいてるわけです。そんでもって、サルにはなりたくない、、と行進しているわけで。

たまさんの「さよなら人類」は、そんな力のあるメロディと歌詞。憑りつかれると、もう虜。とはいえ、かなり前にカラオケで盛り上がったことがある程度の記憶。覚えているのはキャッチ-なところだけ。ふんふんとごまかすのもきもちわるくなってきたので、調べてみると。

深い。。。

正直なところ、何を言ってるかわからない、、、けれども、わかる。。でもわかってない。。。ってな、歌。じわりじわりと脳に喰いこんで寄生されそうで、うすらとさむい。。そうか、最後にはやっぱり、さるになるか。。

さる、ではなくても。人類であること、というか人間であること、に対するこだわりがどんどんと薄れている。まあ歳を重ねて重ねてはや幾年、そういうこともあろうかとおもったり、いやまだ早いやろ、、と思ったり。せめて還暦とかなんとかクリアしてからでもよくないか、と思ったり。。まあ、そんなことを考え始めるほどには、人間であることにもヒトであることにも、疲れがたまっている。ので。

そろそろそろと卒業したい、人間。

子どもの頃、テレビの中で。はやく人間になりたいって叫んでいたベム・ベラ・ベロ。彼らほどの切実さに近いものを感じつつ、はやく人間をやめたいわたしがここにいる。

とはいえ。やめたところで、何かあるってこともなく。すでに、とっくに。人間なの、それで自分は人間です、と主張するんかいあんた、、アレクサのほうがだいぶんましだよ。。なんて毎日を送っているわけだもんで。

人間なんてもう卒業してくれるぅう、、って、毎朝寝床でのたうつ未来が待ってるんだよ、、って子どもの私に教えてあげたい。私が子どもにもどったとして、そんなこと未来の自分から告げられたら、なんか軽く絶望しそうだけれども、な。

せっまい家の玄関までで、ついたーーって叫んでるような生活。せめて、せめても、抜け出したい。けれども、予感としては。わたしが人間から卒業する日、のほうが先、やな。。

 

 

春のあけぼの

枕草子、ならぬ枕と心中。。してもいい、、と思えるくらいに、眠い。

なんでこんなに眠いのでしょうか、、春というのは、どうにもいけない。疲れていても風呂に入り。そのまんま寝床に転がり枕をさがしあてて。横向きに身体を投げ出すと。

疲れが潤びて、指の先から布団に吸い込まれていく。

この瞬間のために、外に出るといっても過言ではない、、とはいえ。朝。布団から枕から離れるのは、身を切られるように、つらい。物理かも、しれない。ひょっとしたら、頭が枕にくっついちゃって、身体は布団に張り付いちゃって。我が身となっているに違いない。。。枕から離れよう、布団から這い出ようともがく。あと5分の呪いは、いつも有効。あと3分、あと1分の呪いなんてのもある。世の中は呪いであふれているのだ。

呪いが完全に溶けてるのは、昼間だけ。なんて文脈になると、自分はどっかの姫だったのかもしれん。。姫ったって、誰もが助け出されるわけでもないだろうし、誰もが自力で現状打破できるわけでもないだろう、、つまり、そっち側の姫。

なんてことを考えていた昼間(昼でも頭ん中には呪いが残ってんのかもしれない)、ふと、いやほんとにふと。春はあけぼの、だったよな。。なんて枕草子が降ってきた。

春はあけぼの、夏はよる、秋はゆうぐれ、冬はつとめて

夏、秋、冬までは体感したことがあるけれども。春のあけぼの、、って、そんな時間帯に人間だったことがあったかなあ。。。少なくても、記憶には引っかからない。。清少納言、すごいぃぃぃ。。

私よりすごいひとを見つけるのは、得意。むしろそれ以外って、人類で(ある意味が)あるのだろうか、いやない(かもしれない)。

春のあけぼの。人類であり続けるためにも、いつかあなたと出逢いたい。。