仏像にみた!!

仏像を見た。

半眼にあるかないかのほほ笑みをたたえて、すくと立つ。指先までもなまめかしく、それでいて気品に満ちている。

仏像を見た。

見開かれ据えられた眼と固く結ばれた口元。力をもて踏みしめつつも、腰には余裕を見せ壮麗な鎧を軽々と着こなす。

仏像を見た。

薄く開いた眼は何も映さず、それでいてすべてを見通している。異形の面を頭上に携え、手には救いを持つ。

そんな仏像に。

わたしは、土偶を、みた。

見てんの、見てないの、見る気はあるの、といいたくなるくらい、一直線にちょこっとスキマ。遮光器土偶なんて、まさに一直線です。

薄布一枚を流麗に着こなす仏さま方と一線を画して。闘いの仏さまは、いやに装飾過多な装いをされてまして。これって、簡略化してギュッと凝縮すると、遮光器土偶なんではないでしょうか、、と。

十一面観音像であるとか、そうでなくても仏さまの髪型、というか、頭って。複雑に装飾もしくは2段ケーキ。これも、遮光器土偶に、みえてきました、けど。

仏像って、土偶要素が、いやもっと限定、遮光器土偶要素が、ハンパないな。。。

土偶縄文人の精神世界の現れとか祈りの具現化とか言われるなら。時代は違えど、おんなじヒトが生み出してきた仏像なんだから、そりゃ、いろんなところが似て見えるよね、なんて思うけれども。

仏さまとか仏像とか宗教とか祈りとか、それぞれがそれぞれの立場で、つまりかなりパーソナルにカスタマイズしていいところだと思っていて、絶対な正解というのは、それぞれの中にしかないから。だから、かなり手前勝手なことを言っているのは百も承知の二百も合点なのですが(いいわけ、、長いな、、)。

仏像という表現の中に土偶が隠れてると思うと、ほこほこしてしまう。1万年も前に日本の土地で人間やってた人たちが、ひょっこり何百年前かの日本に紛れ込んでるみたいで。

縄文とかいうレベルではなく、世界的レベルで。ヒトという生き物が、進化もしくは変化しながら、それでもずっと。奥底で何かがつながり続けている、というか。そんなコトの証左であるような、そんな気がして。

それって、今。現代のヒトであるわたし、にも。つながっているものが、あったらいいな、、なんて祈ってしまう、そんなほこほこ。

遮光器土偶 東京国立博物館
縄文にどうも魅せられているらしい、、そろそろ、認めようと思う。

 

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