むかしのはなし(2:登校とか)

山の中の小さな集落で。学校までは徒歩1時間強。幼稚園まではさらに20分歩く。幼稚園は1年間だけ。つまり、5歳児さんが1時間半以上歩いて毎日幼稚園まで通うのだ。小学校までは、小学生と一緒の登校班で。そこからは5歳児だけで幼稚園まで。民家はほとんどない山沿いの道(舗装はされてたけど、山と田んぼの間の道)を、てくてくてくと。中学(小学校の隣にある)に上がると自転車で通学できるんだけれども。

幼稚園に行くのも、学校に行くのも、本当にイヤだった。なんてったって、遠いのだ。

なんでこんなに歩くんだ、、って毎朝抵抗していたような気がする。登校(園)で覚えていることといえば、冬。ともかく山ン中で寒い。登校班の誰かの家が集合場所になるのだけれども、そこの家ではドラム缶に火を焚いてくれていて。そこに石を放り込みしばし火に当たって温まる。そろそろ行かないと、ってなると家の人が火箸で石をとってくれるので、ハンカチで受け取る。焼き石カイロを抱えて、出発するのだ。制服は半ズボンで、太ももが紫色になりあかぎれる。高学年になるころに長ズボンができたけれども、何と闘ってたんだろうな、、子どもたちよ。

ああ、あともうひとつ。登校途中には一か所だけ横断歩道があって、そこでおんなじ登校班の子が車に飛ばされたことがあった。班長が横断の旗をかかげてみんなを渡らせていたところに車が突っ込んできたのだ。車はそのまま田んぼにつっこみ、わたしはたぶん副班長で、近所の家の戸をたたいた。すぐに出てきてくれた人が、学校に連絡してくれて先生が走ってきて。飛ばされた子のところには班長が飛んでいき。他の子たちは、たぶん先生が学校に連れて行った。飛ばされた子は動けないと号泣。車のお兄さんは茫然と立ち尽くしていて。大人たちが救急車を呼ぼう、、って話になった。班長とわたしは、飛ばされた子のそばで大人たちを見ていたのだけれども、救急車が来たとたんに、飛ばされた子が救急車に乗りたくない、、、と立ち上がるや逃げ出した。痛くて動けない、、って言って泣いてた子に逃げられて、むちゃくちゃびっくりして固まってしまったのを覚えている。そのあと大人に取り押さえられて、救急車に強制連行されたところまでが、人生初の目の前での交通事故の記憶、である。その子はいい感じ?に飛ばされ、おちたところは6月の田んぼの稲の上。ほとんど怪我がなかったようだ、たぶん。次の日も一緒に通ったような気がするし。

登校(園)にくらべて、帰り道は楽しかった。同級生だけでふらふらと帰る。グミとか柿とか。夏は喉が渇くと(水筒は行事の時だけ、なんだよね。何と闘ってんだ子どもたちよ)、スッポンをかじる。スッポンっても植物で、水場の近くに生えている。大人はがんじき、って呼んでたような。。折って採るときに、ポンっていい感じに鳴ったら食べてよし、グシャって折れたら毒スッポン、、という子どもルールがあり、それ故にスッポン、と呼んでいたのだ。酸っぱいけれどものどの渇きがつらいんだもの、ほかに選択肢がなければ食べるよね、ってなものだった。青大将がいればぶん回して電線に引っ掛けるし、春は毛虫が道路を右往左往しているのを蹴飛ばして転がすし、道では巨大なウシガエルがつぶれているし、養鶏所の近くでは息を止めて走らなければいけない(臭いで窒息しそうになる、臭いってたぶん重さがあるよ、今思い出しても)。

今も学校も幼稚園もあるけれど、通学バスがあるんだって、さ。。歩かせないんかい、なんでやぁ(まあ、幼稚園はバスでもいいような気もするけれども)。。って、グレてもいいですかね。いいですよね、歩いてたんだよ、あの頃は。時代によって距離が縮まったりはしてないから、ね。おい。。バスなら子どもの頃にもありましたやん。。って、ぐちぐちしながらも、ちょっと気の毒にも思うのだ。たぶんあの時間からしか生まれなかっただろうものを、ちょいとほんのすこしだけ。懐かしくなったりすることもあるから。

 

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