むかしのはなし(3:葬式のふつう)

今はすっかり家族葬。集落の中でご不幸があると、村長(村ではないけど、そんな感じに呼ばれている)が放送(各家庭に受信機がある)する。家族葬なので葬儀場にいくのは親戚(と認定され呼ばれた人)のみで、とはいえ家から出棺されるときには集落から付き合いのあった(つまりはその時間に集落にいるほとんどすべて)の人が、「お別れ」に行く。そのため、出棺日時の放送は必須である。「お別れ」をされたくないお宅では、ご不幸があったという放送は、出棺後、ということになる。まあ、まれ、なケースだけれども。で、ご香典を初盆の時にもっていくのが一般的な集落のお付き合い。もうちょっと親しい(と思っている)もしくは親戚筋に当たる(と信じている)人は、七日参り(なのかまいり)のタイミングで香典を持参する。

で、子どもの頃の葬式のふつう。

集落がいくつかの組に分かれているのだけれども(大体10軒程度のまとまり。地理で決まる)、冠婚葬祭は基本的に組で動くことになる。最もそれが顕著になるのが、葬式。ご不幸があった家のたいていが両隣(東西南北のうち東西、もしくは南北で2軒)が、メインで動く。ご不幸があった家で葬儀は行われるが、お斎(おとき)と呼ばれる葬儀用の食事を提供するのは、両隣のどちらか。で食事提供の場にならなかった家の当主が葬儀サポートリーダーで食事提供の場になった家の当主はサポートサブとして喪主と一緒に葬儀一切をとりしきる。

お斎は組の婦人会所属メンバーがすべて用意する。だいたい料理上手とよばれる(実際のところはおいておいて、いわゆるコワイ)年かさの人が台所周りをすべて指示することになる。ご不幸があった家の人は、子どもであっても葬儀に関する裏方には手を出せない。がしかし、あれこれ何処にあるか、足りるのか、などの確認に追われることにはなる。足りなければ組のメンバーの家から、もしくは公民館(集落にひとつある)ところから借り出すことになる。この葬儀の時の台所方は既婚の女性に限られるわけだけっれども(婦人会所属要件)、嫁に来たばかりの人にとっては試金石のようなもので、ここで下手をこくとその後一生、語り継がれることになる。さらに力関係のあぶり出しの役割も兼ねていて、トップ(料理上手)もやりすぎると嫌われるし、そこそこ地盤を築いてきた人ですらいろいろと言われるきっかけにもなりうるわけで、小学校も中学年くらいになると、台所方は魔窟と肌に感じる。オトナというのは子どもをヒトとしてカウントしていないらしく。ひそひそとさまざまなタイプのワルグチがささやかれるのだ、頭の上で。自分の親のことを言われていると、締め付けられるような気持になるし(さすがにピタッとやめることが多いけれどもね、だからこそ、ネ)、そうでなくても居たたまれないもんなので。

葬式には花輪(パチンコ屋の前にあるみたいなサイズの葬式用)が家の周りにずらっと並びこれは故人の人徳もしくは喪主の力量をあらわすものになっていたのだと思う。祭壇の周りには通常サイズの花かご、くだものかご、缶詰かご、食料品(だしのもととかカレールーとか)かごなどが並べられる。親族・親戚筋がそれぞれの立ち位置で出すことになっているが、このへんを決めるのが喪主とサポートリーダー。親族(男)とサブもその場に立ち会うことになっている。あとは葬式に来てもらうお坊さんの数(これによって葬儀の格が決まる)や葬儀場への送迎手配、焼き場へ付き添う人の人選など細かいところまで、ここで決められる。たとえば喪主が女性(故人の妻とか)であれば、喪主は参加しても口をはさむことはできないので、代わりに一番近い親族(既婚、未婚であれば働いていないとダメな気がする)が喪主サポートに入ることになる。

たとえば喪主側が、出来るだけ簡素に、と希望したとしても。サポートリーダーが良しとしなければ、それは叶わない。その家と故人の集落内での立ち位置と喪主の希望をすり合わせて、その葬儀の格を決めていくわけだ。

基本的に集落内の家々は、葬儀を自宅で行う、ことを前提に建てられている。ので開け放てば30畳近くの和室があるようなつくりになっている。そのうちの6畳分ぐらいに祭壇とお供えが置かれ、お坊さんの儀式の場となり。残りが参列者の場となる。故人の親族は子どもまで、親戚筋は大人だけ、そのほか友人知人たちがその場に入ることになる。参列者が多い場合は、親戚筋の女性は抜けて、庭などでおしゃべりに興じる。家の外に焼香台が設けられ、そこで家の中の葬儀に参加、ということもある。葬儀の家の台所はお坊さんたち、参列者へのお茶出しに使われているので、組の婦人会の担当者が手と口を忙しく動かしている。

葬儀が終わると、焼き場に行くべき人は、家の前につけられたバスに乗って霊きゅう車と共に行く。家に入らずに外で参列していた人、焼き場に行かない人はそこで見送る。お斎はお坊さんが来る前からバスが行ってしまうまでは提供されていたように思う。バスが行ってしまうと、お斎の会場は撤収がはじまり、葬儀の会場は模様替え。焼き場から人たちが帰ってくる前に、お膳の準備である。

これは故人の親族がもてなしにまわるので、故人の未婚の女の子・孫、もしくは姉妹がこの場を仕切ることになる。葬儀でお茶出しをしていた婦人会メンバーも手伝ってくれることになる。その間に手配されていた(これは喪主・リーダーの仕切り)で仕出し屋から料理・お膳が届くため、会場を設営する。焼き場に行ったメンバーは基本的にこの席につくことになる。用事があって、、と帰る人には、料理を包んで持たせる。サポートリーダー・サブとその妻もこの席につき、もてなしを受けることになる。残った料理は持ち帰れるように、持ち帰り用容器もお膳の下に置かれている。ここには、お坊さんも参加するが、大体が席について割とすぐに帰られる。サポートリーダー・サブが最後まで残り、この人たちが終わりとなると、婦人会のメンバーたちも解散。ここで葬儀は終了、となる。

20年近く前までの葬儀のふつうが、こんな感じだった。子どもの頃の記憶と、自分の祖父母や父の記憶を掘り起こした分。母が最近亡くなるまで、焼き場や納骨に行ったことがなかったもんで、そこで何が行われていたのかは知らないのだけれども。父のときは。結果として、集落でさいごの自宅葬式、となった。すでに実家を出て、遠方で生活していた私には戦場のような葬式だった。。オトナとコドモ、男性と女性、既婚と未婚。いろんな区別がされていて、こりゃあたいへんやん、と再認識したもんで。平成の時代でもこの区別はきっちり。踏み越えちゃいけない、境界線。まあ、遠方で生活している分には何の影響もないけれども、そこで暮らし続ける母にとっては大事になることは肌で感じますからね。。今は、どうなってんのやら。。

 

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