ぐちぐちぐっちぃ、、な愚痴。

20代前半の男の子と出かけることになった。ほぼ初対面の人とまったく知らないところに行く、というのは私にとってはかなりのハードル。とはいえ、まあ、若者は調べもの上手だし、何でも知っているものだからな(まったくの私見)。ついていけばいいかな、、くらいのゆるい下調べで出発。

これはね、、今回に限りかもしれないけれども。いや一人で行ったほうが楽なのは、経験則でもちろん知っているけれども。出発後5分でなんなんや、こいつ。。をぐるぐるとこねくり回しはじめた、ちっちゃいオトナ(私)。

彼はスマホから手も目も離さない。だもんで、ついていかないと、はぐれる。かといってついていくにも、目的地とは違わないか、、ってな方向に進む。とくに駅。。街の中の電車は路線がたくさん。この路線からここで乗り換えて、そっからこう。。ってな打ちあわせはしていたけれども、乗換駅でふらふらしやがる。何やってんだよ、案内板見ろよ、、ってのを、あっちって書いてあるけど、、ってな言葉に変換して声をかけると。スマホではこっちってなってるんで、、って打ち返される。でもね、人の流れと案内板からはあっちから行ったほうが近いんではなかろうか、、てのを呑み込んで、あそうなんだ。。ってな言葉に変換。で、ついていくと。うん、遠回りよね、これ、ってことになる。全部とはいわないけど、さ。

最寄りの駅でささっと降りるもんだから、降り口違うやろが、それくらい調べろや、、ってのは、降り口はあっちでは、、って言葉に変換。どっちでもつきますよね、、って。いや、約束の時間まではまだ余裕があるし、たしかに遠回りになろうが、目的地に着きさえすればよいのだ。ただ個人的に、あくまで私見としてだけれども。道に迷うのは許容できるが、予定があるとき用事もないのに、あからさまに遠回りするのは、ストレスなんです、が。。

うん。別に特に関係性が悪いわけでもなく、愛想の悪い子でもない。そもほとんど初対面、マイナスな感情をもたれる隙もなかった、はずで。実際、スマホを見ていないときは、にこやかにコミュニケーションとれるんだけど、どういうこと。。。呑み込みすぎておなかいっぱいなんですけど、って背中にむかって(声に出さずに)呟いてみる。

うん。やり方の違いであって、それは手段の違いってだけで、目的は一緒で、だから。スマホがあればなんとかなるのよ、つまり、自分で覚えなくても考えなくてもいいことは、アウトソーシング、そう、合理的。そんなやり方も、あるだろうし。ありなんだろう、、いや、ありったら、ありで、たぶんあり。。

まあ、そこからは。頭の回路スイッチをオフにして、ただ街の様子をながめながら彼の後をついていく。下調べでは駅から徒歩10分のところが、15分ちょっとかかったけれども余裕を持って出てきているので、特に問題はない。ないったら、ない。ない、で間違いない。

用事を済ませて、同じ道をたどって帰る。。わけではなく、スマホの指示しているだろう道をたどり、乗り換え。そんな彼の後ろを、回路オフの状態で人の流れに逆らいながらついていく。意識すると、ね。あっちじゃね、こっちじゃね、、ってむくむくむくと、なんかの感情が育っちゃいそうで。でもさ、それは私ばっかり重たいから、いや、なのよ、、ね。。

帰り着いて。おつかれさまでした、無事におわってよかったです、、なんてにこやかに話す彼に。ホンマニナ、、って吐きだしそうになったのを、ほんとにありがとうございました。。ってな言葉に変換。オトナだからな、がんばったな、わたし。

がんばったんだよ、わたし。。

せめてもの、、さくら

 

むかしのはなし(3:葬式のふつう)

今はすっかり家族葬。集落の中でご不幸があると、村長(村ではないけど、そんな感じに呼ばれている)が放送(各家庭に受信機がある)する。家族葬なので葬儀場にいくのは親戚(と認定され呼ばれた人)のみで、とはいえ家から出棺されるときには集落から付き合いのあった(つまりはその時間に集落にいるほとんどすべて)の人が、「お別れ」に行く。そのため、出棺日時の放送は必須である。「お別れ」をされたくないお宅では、ご不幸があったという放送は、出棺後、ということになる。まあ、まれ、なケースだけれども。で、ご香典を初盆の時にもっていくのが一般的な集落のお付き合い。もうちょっと親しい(と思っている)もしくは親戚筋に当たる(と信じている)人は、七日参り(なのかまいり)のタイミングで香典を持参する。

で、子どもの頃の葬式のふつう。

集落がいくつかの組に分かれているのだけれども(大体10軒程度のまとまり。地理で決まる)、冠婚葬祭は基本的に組で動くことになる。最もそれが顕著になるのが、葬式。ご不幸があった家のたいていが両隣(東西南北のうち東西、もしくは南北で2軒)が、メインで動く。ご不幸があった家で葬儀は行われるが、お斎(おとき)と呼ばれる葬儀用の食事を提供するのは、両隣のどちらか。で食事提供の場にならなかった家の当主が葬儀サポートリーダーで食事提供の場になった家の当主はサポートサブとして喪主と一緒に葬儀一切をとりしきる。

お斎は組の婦人会所属メンバーがすべて用意する。だいたい料理上手とよばれる(実際のところはおいておいて、いわゆるコワイ)年かさの人が台所周りをすべて指示することになる。ご不幸があった家の人は、子どもであっても葬儀に関する裏方には手を出せない。がしかし、あれこれ何処にあるか、足りるのか、などの確認に追われることにはなる。足りなければ組のメンバーの家から、もしくは公民館(集落にひとつある)ところから借り出すことになる。この葬儀の時の台所方は既婚の女性に限られるわけだけっれども(婦人会所属要件)、嫁に来たばかりの人にとっては試金石のようなもので、ここで下手をこくとその後一生、語り継がれることになる。さらに力関係のあぶり出しの役割も兼ねていて、トップ(料理上手)もやりすぎると嫌われるし、そこそこ地盤を築いてきた人ですらいろいろと言われるきっかけにもなりうるわけで、小学校も中学年くらいになると、台所方は魔窟と肌に感じる。オトナというのは子どもをヒトとしてカウントしていないらしく。ひそひそとさまざまなタイプのワルグチがささやかれるのだ、頭の上で。自分の親のことを言われていると、締め付けられるような気持になるし(さすがにピタッとやめることが多いけれどもね、だからこそ、ネ)、そうでなくても居たたまれないもんなので。

葬式には花輪(パチンコ屋の前にあるみたいなサイズの葬式用)が家の周りにずらっと並びこれは故人の人徳もしくは喪主の力量をあらわすものになっていたのだと思う。祭壇の周りには通常サイズの花かご、くだものかご、缶詰かご、食料品(だしのもととかカレールーとか)かごなどが並べられる。親族・親戚筋がそれぞれの立ち位置で出すことになっているが、このへんを決めるのが喪主とサポートリーダー。親族(男)とサブもその場に立ち会うことになっている。あとは葬式に来てもらうお坊さんの数(これによって葬儀の格が決まる)や葬儀場への送迎手配、焼き場へ付き添う人の人選など細かいところまで、ここで決められる。たとえば喪主が女性(故人の妻とか)であれば、喪主は参加しても口をはさむことはできないので、代わりに一番近い親族(既婚、未婚であれば働いていないとダメな気がする)が喪主サポートに入ることになる。

たとえば喪主側が、出来るだけ簡素に、と希望したとしても。サポートリーダーが良しとしなければ、それは叶わない。その家と故人の集落内での立ち位置と喪主の希望をすり合わせて、その葬儀の格を決めていくわけだ。

基本的に集落内の家々は、葬儀を自宅で行う、ことを前提に建てられている。ので開け放てば30畳近くの和室があるようなつくりになっている。そのうちの6畳分ぐらいに祭壇とお供えが置かれ、お坊さんの儀式の場となり。残りが参列者の場となる。故人の親族は子どもまで、親戚筋は大人だけ、そのほか友人知人たちがその場に入ることになる。参列者が多い場合は、親戚筋の女性は抜けて、庭などでおしゃべりに興じる。家の外に焼香台が設けられ、そこで家の中の葬儀に参加、ということもある。葬儀の家の台所はお坊さんたち、参列者へのお茶出しに使われているので、組の婦人会の担当者が手と口を忙しく動かしている。

葬儀が終わると、焼き場に行くべき人は、家の前につけられたバスに乗って霊きゅう車と共に行く。家に入らずに外で参列していた人、焼き場に行かない人はそこで見送る。お斎はお坊さんが来る前からバスが行ってしまうまでは提供されていたように思う。バスが行ってしまうと、お斎の会場は撤収がはじまり、葬儀の会場は模様替え。焼き場から人たちが帰ってくる前に、お膳の準備である。

これは故人の親族がもてなしにまわるので、故人の未婚の女の子・孫、もしくは姉妹がこの場を仕切ることになる。葬儀でお茶出しをしていた婦人会メンバーも手伝ってくれることになる。その間に手配されていた(これは喪主・リーダーの仕切り)で仕出し屋から料理・お膳が届くため、会場を設営する。焼き場に行ったメンバーは基本的にこの席につくことになる。用事があって、、と帰る人には、料理を包んで持たせる。サポートリーダー・サブとその妻もこの席につき、もてなしを受けることになる。残った料理は持ち帰れるように、持ち帰り用容器もお膳の下に置かれている。ここには、お坊さんも参加するが、大体が席について割とすぐに帰られる。サポートリーダー・サブが最後まで残り、この人たちが終わりとなると、婦人会のメンバーたちも解散。ここで葬儀は終了、となる。

20年近く前までの葬儀のふつうが、こんな感じだった。子どもの頃の記憶と、自分の祖父母や父の記憶を掘り起こした分。母が最近亡くなるまで、焼き場や納骨に行ったことがなかったもんで、そこで何が行われていたのかは知らないのだけれども。父のときは。結果として、集落でさいごの自宅葬式、となった。すでに実家を出て、遠方で生活していた私には戦場のような葬式だった。。オトナとコドモ、男性と女性、既婚と未婚。いろんな区別がされていて、こりゃあたいへんやん、と再認識したもんで。平成の時代でもこの区別はきっちり。踏み越えちゃいけない、境界線。まあ、遠方で生活している分には何の影響もないけれども、そこで暮らし続ける母にとっては大事になることは肌で感じますからね。。今は、どうなってんのやら。。

 

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電車の中のありす

ちょっと寒い日に電車に乗ると、どうにもうとうと寝てしまう。ほかほか座席に、とっとんとっとん、あやされてしまうと、抗えない。。今日の乗車時間は30分弱。乗り過ごしてしまうリスクもあるから、気を付けないと、、と思ってたのに。。ほわっと目が覚めた、、ということは、寝てた。。ここは何処。。。

座っていたのは連結部すぐのかど。目の前には連結部ととなりの車両、そこから窓の外が見える、、みえるけれども、、流れる景色が、、ぎゃく、ではなかろうか。。

中ほどの車両の進行方向一番前のかどに座っていたんですけども。景色が前に流れてますよ、、どうゆこと。。

よたれかかっていた頭を起こして、次の駅の表示を確認する。。。って、あれ。。窓の外の景色は後ろに流れてます、、ね。。。はれ???

覚めてきた(もしくは冷めてきた)あたまで、理解。となりの車両の窓には、たぶん、反転した景色が反射してうつっている、、のではないだろか。うん、たぶん、だけれども。もういちど電車の連結部のかどによりかかって、となりの車両を眺める。窓の外の景色は前に流れていて、人の動きも不自然で。これは、ちょっと違う世界を覗き見ている、そんな感覚。

幸いにして(ほんとラッキーなことに)、目が覚めたのが3駅前だったので。そこから到着まで、ゆらゆらゆらゆら、となりの世界を覗き見してた。ほかほかの座席でゆらゆら見てた。こんな冒険も、あり。

 

 

 

ワン、ピース。

アテンド尽くしの4日間が終わった。。

相手のペースに合わせて歩く。行きたいところに連れていく。。食べたいものを食べさせる。。。まったくの守備範囲外のリクエストに、なるべく応えなくてはいけないのだけれども、調べ方すらおぼつかない。。

自分でない人と一緒に行動するというのは。。。すごいことです。

知っていたけれども、まったく自覚はあったけれども。自分がこんなにもわがままな間だったとは。。ほんのちょっとしたことで、カチンカチン、心のうちにとげが立ち。精一杯に笑顔を張り付けて、先に立つ、後ろに回る、荷物を持つ。一人のアテンドはまだましだった。その人の世界を後ろからのぞきこんで、未知との遭遇、、って、これは楽しいことに違いない。。って自分に言い聞かせる余裕もあった。が二人をアテンドってなると。しかも方向性も嗜好性も全くかぶらないリクエスト、となると。これってどっちを立てるべきなんだよ。。しらねーよ。。って投げちゃだめですかね。。無茶です、できません、てのは。

やさぐれを押し込めて、笑顔で対応。。かなり歩いたし走り回ったけど。表情筋が一番仕事したと思う。。お見送りして相手が見えなくなったら。重力で顔の筋肉、落っこちたと思う。コワイ。

できるできない、向いてる向いてない、とか、もうどうでもよくて。やるかやられるか、でもなくて。

やりたいかやりたくないか。

これだけで生きていけるオトナに、おれは、なる。。

 

 

 

むかしのはなし(2:登校とか)

山の中の小さな集落で。学校までは徒歩1時間強。幼稚園まではさらに20分歩く。幼稚園は1年間だけ。つまり、5歳児さんが1時間半以上歩いて毎日幼稚園まで通うのだ。小学校までは、小学生と一緒の登校班で。そこからは5歳児だけで幼稚園まで。民家はほとんどない山沿いの道(舗装はされてたけど、山と田んぼの間の道)を、てくてくてくと。中学(小学校の隣にある)に上がると自転車で通学できるんだけれども。

幼稚園に行くのも、学校に行くのも、本当にイヤだった。なんてったって、遠いのだ。

なんでこんなに歩くんだ、、って毎朝抵抗していたような気がする。登校(園)で覚えていることといえば、冬。ともかく山ン中で寒い。登校班の誰かの家が集合場所になるのだけれども、そこの家ではドラム缶に火を焚いてくれていて。そこに石を放り込みしばし火に当たって温まる。そろそろ行かないと、ってなると家の人が火箸で石をとってくれるので、ハンカチで受け取る。焼き石カイロを抱えて、出発するのだ。制服は半ズボンで、太ももが紫色になりあかぎれる。高学年になるころに長ズボンができたけれども、何と闘ってたんだろうな、、子どもたちよ。

ああ、あともうひとつ。登校途中には一か所だけ横断歩道があって、そこでおんなじ登校班の子が車に飛ばされたことがあった。班長が横断の旗をかかげてみんなを渡らせていたところに車が突っ込んできたのだ。車はそのまま田んぼにつっこみ、わたしはたぶん副班長で、近所の家の戸をたたいた。すぐに出てきてくれた人が、学校に連絡してくれて先生が走ってきて。飛ばされた子のところには班長が飛んでいき。他の子たちは、たぶん先生が学校に連れて行った。飛ばされた子は動けないと号泣。車のお兄さんは茫然と立ち尽くしていて。大人たちが救急車を呼ぼう、、って話になった。班長とわたしは、飛ばされた子のそばで大人たちを見ていたのだけれども、救急車が来たとたんに、飛ばされた子が救急車に乗りたくない、、、と立ち上がるや逃げ出した。痛くて動けない、、って言って泣いてた子に逃げられて、むちゃくちゃびっくりして固まってしまったのを覚えている。そのあと大人に取り押さえられて、救急車に強制連行されたところまでが、人生初の目の前での交通事故の記憶、である。その子はいい感じ?に飛ばされ、おちたところは6月の田んぼの稲の上。ほとんど怪我がなかったようだ、たぶん。次の日も一緒に通ったような気がするし。

登校(園)にくらべて、帰り道は楽しかった。同級生だけでふらふらと帰る。グミとか柿とか。夏は喉が渇くと(水筒は行事の時だけ、なんだよね。何と闘ってんだ子どもたちよ)、スッポンをかじる。スッポンっても植物で、水場の近くに生えている。大人はがんじき、って呼んでたような。。折って採るときに、ポンっていい感じに鳴ったら食べてよし、グシャって折れたら毒スッポン、、という子どもルールがあり、それ故にスッポン、と呼んでいたのだ。酸っぱいけれどものどの渇きがつらいんだもの、ほかに選択肢がなければ食べるよね、ってなものだった。青大将がいればぶん回して電線に引っ掛けるし、春は毛虫が道路を右往左往しているのを蹴飛ばして転がすし、道では巨大なウシガエルがつぶれているし、養鶏所の近くでは息を止めて走らなければいけない(臭いで窒息しそうになる、臭いってたぶん重さがあるよ、今思い出しても)。

今も学校も幼稚園もあるけれど、通学バスがあるんだって、さ。。歩かせないんかい、なんでやぁ(まあ、幼稚園はバスでもいいような気もするけれども)。。って、グレてもいいですかね。いいですよね、歩いてたんだよ、あの頃は。時代によって距離が縮まったりはしてないから、ね。おい。。バスなら子どもの頃にもありましたやん。。って、ぐちぐちしながらも、ちょっと気の毒にも思うのだ。たぶんあの時間からしか生まれなかっただろうものを、ちょいとほんのすこしだけ。懐かしくなったりすることもあるから。

 

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またね

すっごい雨と風と。窓ガラスにたたきつける雨粒に、お天道様の本気を感じたけれども。いつのまにやら雨がやんで、ざざぁっと雲が走り去り、青い空が見えている。そこまでは確認して外に出て。

そんでもって、春、である。

空気がまったくにいれかわっていた。むわむわっとふわふわっと、なにかが空気からうまれてきそうな、生っぽいあたたかさが身体に絡みつく。たたきつけるように、春がきたらいしい。ここのところ、空の模様にふりまわされていたけれども。それもそろそろに終わるかもしれない。

今日ではなく、先日の雨の後の空。ふりまわされていたわりに、空を見上げる機会がめっきりと減っていた。。ことにも、気が付いていなかったのだけれども。

たぶんわたしにとって、この冬さいごの、空。

 

 



ひょっとしたらのラジオ体操

今週のお題「練習していること」

 

ここのところ、お歳を重ねた弊害が身体にダイレクトに影響を及ぼしている。ほんとに、腕が上がらない。。とくに何かをやらかした覚えはないので、ケガというわけでもなく。いや、知ってます、聞いたことはありましたから。。でも、、そんなお歳、でしたか。。自分。。

ふらふらふら調べてみると、まあ、症状的にはほぼほぼ〇十肩。炎症を起こしているから冷やせ、いやじんわりと温めたほうがよい、安静にしていろ、よく動かさないとダメ、、、とまあ。みなさまのご高説、全部受け入れとったら、肩の前にアタマが壊れるわ。。ではなくて。人それぞれってことかもしれんな、うん、これがいわゆる十人十色ってやつか。って、ふかぁぁく悟りの境地に潜り込みそうになったけれども。

この〇十肩、まず一番に不便を実感するのが、お風呂。身体を洗うのも、頭を洗うのも、腕が回んなくて届かない、、というか。つい忘れていつも通りに動いてしまうもんだから、ピキッっと、しばし動けなくなる、痛み。つらい。。さらには、着替え。そっとそぉっと、ここまでは大丈夫、、をたしかめながらやっても、痛みでフリーズしちゃうことがあるんです、よぉおお。。経験してみないとわからないこと、想像じゃあ追いつかないこと、ってホントにたくさんあるけれども、まさかのここ(〇十肩)、、ってのを実感してる。母が痛がっていたのを、たいへんやなあ、、といっしょに。ちょっとおおげさなんじゃうちの母、ってな気もちで見てました、ほんとごめん。これは、痛いわ。。

てなわけで、練習してできるようになりたい。ラジオ体操。

母が〇十肩で痛がってた時に、何処から仕入れたのか、ラジオ体操を始めていたのを思い出したのだ。まだ若造だったわたしからすると、それしか動かないのかっ、マジかっ。。ってな動きだったけれども。ええ今は、鏡の中に母を見てますよ。。。

とはいえ、ほんとに興味がなかったのかどれくらいかかってたか覚えてないからいつしか、としか言いようがないのだけれども、普通のラジオ体操になっていた。あれだけ腕をあげたり、ぶん回したりできるんだから、きっと〇十肩も改善したんだろう、たぶん。。どれくらいの期間でよくなるのかはさっぱりわからんけれども(自業自得の匂いがする)、何処かの誰か達の何でも情報よりは、身近な実例(?)をとりたい。ひょっとしたら、だとおもう、かもしれん、、てな効能ではあるけれども。

ラジオ体操、といいつつもテレビ体操をご愛用。お姉さんお兄さんたちと一緒に、いてぇー、ううぅー、ひえぇー、、と。ひとりでやってるとよくわかんない声がでるけど、まあ、それは良しとして。できれば、毎日。それでだめなら一日おき。せめてもの1週間に1度は(ダメダメやな、こいつ。。)、練習を重ねて。お姉さんたちのように、軽やかにそれでいてきびきびと、、、なんてぜいたくは言わない。せめて。ためらいなく、滞りなく、腕をぶん回せるようになりたい。。